山梨の旅
六十有余年前の疎開先を訪ねて

私は小学2年に山梨県の甲府に、そして3年には北巨摩郡小笠原村正楽寺に
それぞれ縁故疎開し、その年の8月15日に日本は敗れ終戦をむかえました。
昭和20年8月15日(西暦1945年)小学3年の夏休み暑い日でした。
      
                                             

先日、62年振りに戦時中お世話になった疎開先や学校を訪ねてみました。
最初に疎開したのは山梨県甲府市。 昭和19年3月末(西暦1944年)
当時の「朝日國民學校」で初等科(小学)2學年の一年間を過ごしました。


武田神社
「武田神社」は、疎開先から歩いて30分位の所にあったとおもいます。一度行った
記憶がありますが定かでありません。 
今回はとりあえず神社にお参りしてから、疎開先と小学校を訪ねることにしました。
小さな写真にマウスをのせると大きな画像で見ることが出来ます。(説明文のついているものもあります)
武田神社 石垣、修復した跡がはっきりしています。
武田氏館跡
「甲陽武能殿」 神社から甲府駅に続く参道
武田神社本殿 名水「姫の井戸」 武田水琴窟 竹筒に耳を当てると、妙なる音が聞こえます。

現在、武田神社がある場所は、元は「躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)と呼ばれ
信虎、信玄、勝頼三代の住まいでした。

神社は大正8年(西暦1919年)に建立されたそうです。


武田神社に行ったら「宝物殿」は是非ご覧に
なると良いでしょう。
拝観料は大人300円ですが売店に置いてある
上のパンフレットの右下の割引券で、200円に
なるので利用する事をお勧めします。


 現在は、話題の「山本勘助」の遺宝を公開中。
 山本勘助は戦国時代最強を誇った甲州軍団随一の智将。
 武田信玄の知恵袋と云われます。
 



 主な展示品は
 三条家より寄進された「吉岡一文字」の太刀」(国の重要文化財)

 武田家所蔵 大井夫人所用「懐剣」

 「風林火山」の文字が書かれた孫子の旗。




 特別展示品として
 鐘馗(しょうき)の図 信玄公筆

 名刀  銘 「兼重」

 勘助母の錦絵 など
 

私は昭和11年(1936)、東京中野で生れ育ちました。


東京市が空襲をうける
昭和16年12月8日(1941)、日本は米英両国に対し宣戦布告をしました。

昭和17年 4月18日(1942)、東京が「B52」により初の空襲を受けました。
その時5歳だった私は、飛行機から何かが落ちてくるのをチンチン電車の
窓から祖母と一緒に見た記憶がありますが、そのとき周りの大人たちが、
「あれは演習だろう」と云っていたのを覚えています。今から思えばあれが
最初の空襲だったのです。                            


甲府に疎開
空襲が度重なるようになり初等科1學年終了時の昭和19年3月末に甲府
に縁故疎開してきました。 転校先は「朝日國民學校」でした。

疎開先はぶどう畑と養鶏所を営んでいました。養鶏所そばの一部屋を
お借りして祖母と義理の姉。私と弟妹の5〜6人の生活が始まりました。 


元「ぶどう畑」の跡地



父母からの長距離電話
当時、父母は中野で商売をしていましたので疎開することは出来ませんでした。
その父母から時々電話がありました。
疎開先のお宅には電話がなく (ほとんどの家に電話などありませんでした)
道路を挟んだ向かい側のお寺さんに掛かってきて、呼び出していただきました。

遠い距離なのにすぐ耳元に聞こえる両親の声に吃驚したり喜んだりしました。

お寺さんは長い棘が沢山ある背の高い柑橘系の生垣で囲われていました。


小笠原村正楽寺に疎開
やがて、甲府の上空にも 「B29」 が編隊を組んでやってくるようになりました。
空襲警報のサイレンのなる中、「B29] を頭上に見上げて防空頭巾を被っての
下校は本当に緊張の日々の連続でした。

そして初等科2學年終了と同時に韮崎からさらに奥に入った小笠原村正楽寺に
疎開しました。 昭和20年3月末(1945)だったでしょうか・・


甲府がほぼ全滅
その約3ヶ月後の、7月6日から7日にかけ甲府は大空襲に襲われ市の74%が
焦土と化しました。 疎開先だったお宅もこの空襲で焼失してしまいました。

正楽寺からも、甲府方面の夜空が真っ赤に染まっているのが見えました。


清運寺さん
今回、「向かい側のお寺さん」は多分こちらではないかと思い、お尋ねしました。
ところが、お寺さんには当時をご存知の方は既にいらっしゃいませんでした。

応対して下さった お寺さんの方々は、お忙しい中、当時を知っていそうな人々に
連絡を取ってくださいました。 生憎とお留守の方ばかりでしたが、夕方わざわざ
携帯電話にご連絡を戴きました。

やはり、「向かい側のお寺さん」は清運寺さんで、
当時は「カラタチの生垣」で向かい側は「養鶏所」でした。” との事でした。

お陰様で場所が特定できました。        本当に有難う御座いました。


現在の「清運寺」さん



昔はこのような「カラタチ」(枳殻)の生垣でした。



甲府市立朝日小学校
今日は7月29日、参議院議員通常選挙日です。私たちは期日前投票を済まして
きましたが、ここ朝日小学校は投票所になっていました。

校舎を回り職員室に行きましたが日曜日のため、学校関係の方はどなたも
いらっしゃいませんでした。

校庭で写真を撮り、見回しましたが思い出したのは学校の脇を流れている相川
だけでした。

甲府市立朝日小学校

校歌の碑   校庭のアカメヤナギの前で 昭和20年7月6日の空襲にも生き残ったようです   朝日小学校の校章


当時の成績通信表など

当時、初等科二學年(小学校2年生)でしたが
毎朝 「国本ニ培ヒ国力ヲ養ヒ以テ国家隆昌ノ
気運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク
道タル甚ダ遠シ・・」という「青少年学徒ニ賜リタ
ル勅語」を全員で唱えました。今でも一字一句
忘れません。
モールス信号も大部分記憶にあります。

当時、早く大きくなって特攻に志願するんだと
私も含め大方の児童達が思っていたでしょう。
今も昔も、教育とは恐ろしいものです。



昼食は、明治36年創業の老舗 「うなぎ若荒井」
入口には、注文を受けてから約40分程かかりますとの張り紙です。


「上うな重」は2、800円です。 今回の旅は、四男一家に依頼して
一泊二日の予定で組んでもらいま
した。
どこでも好きな所に連れて行って
くれると有難い申し入れでした。
           
この旅行の一行です。


山梨県立美術館


 昼食を甲府市の老舗の
 「うなぎ若荒井」でとり
 せっかく甲府に来たので
 「山梨県立美術館」に
 行きました。


 
「山梨県立美術館」は
 昭和53年(1978)に
 開館し「ミレーの美術館」
 として親しまれています。



 私は今回二度目ですが
 「種をまく人」や「落ち穂
 拾い、夏」などフランスの
 画家ジャン=フランソワ・
 ミレーの作品をはじめ
 「山梨ゆかりの美術」や
 「萩原英雄コレクション」
 など多くの展示品が目を
 楽しませてくれました。


 ワインカラーの洒落た
 この美術館、近くを通っ
 た折は是非寄ってみて
 ください。


 入館料は(常設展)
 一  般 500円
 大・高生 210円
 中・小生 100円

 年齢その他による
 割引や無料制度が
 あります。



今宵の宿は石和(いさわ)温泉  華やぎの章 慶山
 宿は
 石和(いさわ)温泉の慶山
 ここも四男一家が招待し
 てくれました。
 
 岩大露天風呂「六花仙」
 を楽しみ
 美味しい料理を充分に
 堪能しました。

「石和温泉」 着いた夜は生憎の天気で花火の打上げは中止になりました。


夕食は「四季亭」皐月にて



翌日の朝、どうやら天気が回復しそうです。



今日は北杜市へ向います(昔の北巨摩郡小笠原村正楽寺方面)
ついでに北杜市長坂町にある「風林火山館」と「平山郁夫シルクロード美術館」に
立寄りながら、目指す 「正楽寺」に行くことにしました。


風林火山館



風林火山館。
時代考証に基づき武田信虎、信玄、勝頼の
武田三代の住まい「躑躅ケ崎館」を再現した
そうです。
風林火山館の広さは約19、000u。


NHKの今年の大河ドラマ「風林火山」のロケ地
として、このオープンセットが作られました。
ロケのない日には一般公開されています。


館内には地元の特産品や風林火山グッズ等の
売店がたくさん並んでいます。
私達は、「おやき」をお土産に買ってきました。
野沢菜、あずき、なす、くるみの四種類があり
素朴で懐かしい味を堪能しました。
見学時間は約1時間くらいでした。


この後は、「平山郁夫シルクロード美術館」に
向います。車で10分程です。


主殿(武田信玄公の接見場所) 「おやき」売場の明るく気さくな美人お姉さん。
厩(うまや):馬の厩舎 風林火山館
塀重門(二本の柱に扉をつけた門) 記念撮影
二階櫓 四男とお嫁さんと孫です。 主殿 主殿(武田信玄公の接見場所) 二階櫓(館を警護するための見張台) 大手門(おおてもん)


風林火山館から望む南アルプス 甲斐駒ケ岳(2967m)


生憎のお天気で、富士山は見えませんでした。




財団法人 平山郁夫シルクロード美術館



この建物は2005年にグッドデザイン賞を受賞した素晴らしい建造物です。



建物のこの曲線がなんともいえません。




平山郁夫ファンにとって、このシルクロード美術館はたまりません
二階の展示室には大きな壁面いっぱいにシルクロードを題材と
した先生の最新作がぐるりと並べられています。



シルクロード行くキャラバン 西(月)





別館では、永年にわたり平山夫妻がシルクロードで手に入れたガラス製品など
小物が展示されています。
ひとつひとつは素朴な感じのものですが、これだけの物が一堂に展示されると
流石に見ごたえがあります。

この「平山郁夫シルクロード美術館」は、平山画伯の云わば私設美術館です。
平成15年(2003年)11月5日付けで文部科学省の認可を受けて財団法人
平山郁夫シルクロード美術館が誕生しました。
館長は美智子夫人で、これからもう一棟建築するそうです。






入館料は
一般が1,000円 高・大学生は700円
小・中学生は500円(日曜は無料)
70歳以上、20名以上の団体は各100円割引



明野 正楽寺
道に迷い、やっと人家のある場所に出ました。小さな辻に車を止めて偶々(たまたま)
前方から来た車の方に声をかけました。「正楽寺はどこでしょうか?」と・・
「ここが正楽寺です」とその方。 最初はとても信じられませんでした。



私。
「実は、私は戦時中正楽寺に疎開していて小笠原小学校でT先生に教わりました。」

その方。
「私の家がTです。私の母がそのTです。」

何という偶然でしょう! その方は私より一級上のTさんでした。 暫らくは当時を
思い出し、鎮守の森の事や同級生だった人の消息などをお聞きしました。
へぼ(蜂の一種)を追いかけて蜂の巣を取ったことや川で石の裏に生みつけた魚の
卵を食べたこと、養蜂をしていた家や年上の娘さんのこと等など・・
残念ながら疎開していたお宅は現存していませんでしたが・・、

突然、62年前にタイムスリップした思いでした。

当時は無かった上からの道を降りて来たので分からなかったのです。



Tさん(向って左)と私


下の流れは正楽寺川


川は昔より狭くなり、大分汚染されていました。



この景色にも見覚えがあります。



名残惜しいのですが正楽寺を後にして韮崎に向います。

学校まで約2キロ、毎日通ったのはこの上にある道だったようです。



 「小笠原國民學校」

 正楽寺に再疎開した年の
 多分2學期に、この辞令を
 戴いたのだと思います。
 昭和20年8月4日の日付け
 です。
 この11日後の8月15日に
 日本は破れ終戦を迎えたの
 です。

昔、 「山梨県北巨摩郡小笠原國民學校」があった場所です。
私は、ここに初等科3學年の2學期まで在校し、この年の12月に
東京の父母の元に帰りました。





韮崎市駒井の交差点です。



国道20号沿いの釜無川(竜王近辺)




大分、遅くなってしまいましたがやっと昼食の場所にたどり着きました。
甲州ほうとう 「小作」。  時間がずれていたので貸し切り状態でした。


その昔、疎開先で食べた懐かしい「おほと」の味とは違いますが・・
全員お腹いっぱいになりました。 あとは一路家路につきます。



以前から、一度行ってみたいと思っていた疎開先に行くことが出来ました。
幸運にも、甲府では清運寺さん、正楽寺では偶々道を尋ねた方が当時の
私の先生のご子息で一級上のTさんという幸運に恵まれました。

戦時中の疎開ながら、この山梨で過ごした約2年間は思いっきり自然に
触れることが出来た貴重な歳月でした。 この時の体験は62年経った今
でも鮮明に思い出すことが出来ます。

甲府の想い出(初等科2學年の1年間)
甲府では、ブドウ畑でアシナガバチを手作りのゴム鉄砲で撃ち落した事
弟と追いかけっこをして鉄条網で額を切ったこと、湯村の温水プールで
泳ぎを覚えたこと、鶏は弱った仲間を追い掛け回し傷つけること、近くの
蹄鉄所で、真っ赤に焼けた蹄鉄を馬の蹄につける作業を見ていたこと


正楽寺での思い出(初等科3學年の1・2學期の約9ヶ月間)
正楽寺では、ウルシにかぶれた事、沢蟹をバケツ一杯捕ったこと、桑畑で
口のまわりを赤紫に染めて桑の実を頬ばったこと、セルロイドとマッチを
用意してヘボの巣穴の入口から燻して手に入れた蜂の子を食べたこと、
川を大きな石等でせき止めて水遊びをしたり、魚を手づかみで捕ったこと、
鎮守の森で私達下級生が上級生達にいじめられた事。

カブトムシやクワガタが木の汁の周りに群がっていた事、縄を綯って草鞋
を作ったこと、足にゲートルが上手に巻けて嬉しかったこと、 竹を半分に
割って作った竹スキーで雪の坂道を滑ったこと、繁昌寺の庭で遊んだ事、
体の弱かった弟の為に蛇を捕まえて皮をはいで焼いて食べさせたこと。

田んぼから一人で馬に乗って帰ったこと、母が大きな荷物を両手に持ち
赤ん坊だった末弟を背負って遠くから歩いて来るのを見た時の想い出。

そして終戦の玉音放送を聞いた暑い日の事、ジープに乗ったアメリカ兵が
初めて正楽寺に来たときの村人達の動揺。等など


12月に入り中野に帰ることになりました。迎えに来てくれた父が東京に
着いた時にご馳走してくれた「支那ソバ」の美味しかったこと、世の中に
こんな美味しいものが有ったのかと感激したものでした。




ようやくホームページがほぼ出来ましたのでこれからアップロードします。
不備の点が見つかりましたらその都度加筆訂正をいたします。


また、このホームページを編集しながら
「もっと沢山写真を撮ってくればよかった」と、残念に思っています。

終わりに、私の我がままに最後まで気持ちよく笑顔で付き合ってくれた
息子一家と妻に心から感謝します。                2007.8.7





おまけ


 ここに来たらやっぱり
 「おほと」でしょう。 
 確か、疎開先では「ほうとう」
 と云わずに「おほと」と云って
 いたと思います。だから私も
 自然に「おほと」と口に出ます

 どこの家でも自家製です。
 こねた後、布でくるみ茣蓙で
 巻いて足で踏みました。
 子どもの私も時々は手伝った
 ものです
 
 「うまいもんだよカボチャの
 ほうとう」と云います。
 
 早速、昔を思い出しながら
 カボチャと野菜たっぷりの
 「おほと」をつくりました。

 懐かしい、そして美味しい
 「おほと」が出来ました。
 


もう一つは、「信玄餅」です。
これは桔梗屋の「桔梗信玄餅」です。 創業は明治22年とのことです。

甲州のお土産にはもちろん時期によって「ぶどう」や「桃」があります。
四季を問わなければ「ワイン」に「ほうとう」そして「信玄餅」でしょう。



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