奈良大和路・飛鳥の旅
昨冬に続き、遷都1300年行事で賑わう奈良大和路を訪ねてきました。

2010.5.29〜6.1

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 姫路で挙式した甥の結婚式出席に託けて、昨冬に続き遷都1300年記念行事で賑
 わう奈良大和路を訪れてきました。

 奈良の初日は昨年同様、定期観光バス(東京の「はとバス」の様なもの)を利用して  
 前回に行かなかった奈良公園3名所(東大寺・春日大社・興福寺)と春日奥山めぐり、 
 そして平城遷都1300年祭会場(平城京跡)を訪ねました。
 翌日は観光タクシーでキトラ古墳壁画、高松塚古墳、橘寺、石舞台古墳、飛鳥寺 
 などの飛鳥地方を見学し、橿原神宮に参拝してきました。

今後も必要に応じ加筆・訂正をいたします。

5月29日、関東地方は雨の予報でしたがここ姫路は晴天でした。

今夜は駅前の「ホテル日航姫路」に宿泊します。
明朝10時から甥の結婚式です。

5月30日、式場に花嫁を迎えお寺で佛前結婚式が執り行われました。
この結婚式の写真集を掲載しています。
写真を見るためには、パスワードが必要です。花婿の苗字をローマ字で入力すると
写真集のページにリンクします。 「ここをクリックして下さい



5月30日夜は「ホテル日航奈良」に宿泊し、翌31日は「奈良定期観光バス」で観光。
先ずは奈良公園・東大寺(世界遺産)
東大寺
南大門前は修学旅行の生徒達で賑わっていました。
ここの鹿は食べ物には恵まれているらしく「安芸の宮島」の鹿のように
しつこく強引ではありません。食足りて礼節を・・ですかね。

「東大寺南大門」
東大寺の正門で鎌倉時代に東大寺を復興した重源上人が宋様式を
採り入れ再建した大仏様(だいぶつよう)建築で、門内の両側には
運慶・快慶らにより造られた仁王像が向かい合って安置されています。
通常、仁王像や金剛像は門の両側に表を向いて据えられています。
南大門の「仁王象」
仁王像二体は、昭和63年(1988)から5年間に亘って全面解体修理が行われ
天平創建期から向かい合って立っていた事が分かったそうです。
「東大寺」
「定期観光バス」の皆さんと記念撮影。

東大寺は天平勝宝4年(752)に開眼された廬舎那大仏(るしゃなだいぶつ)を
本尊とする大寺で、広大な境内には世界最大級の木造建築物である大仏殿を
はじめとする歴史的建造物が立ち並び、それぞれの堂内には数多くの国宝級の
仏像が安置されています。
東大寺・大仏殿
大仏殿の鴟尾(しび)
建物を火災から守る為に、水に関係する想像上の海獣を屋根にのせます。
戦国時代になると鯱(シャチホコ)が城郭の建築に使われるようになります。

毎年、大晦日から元旦には正面唐破風(からはふ)下の「観相窓」が
開かれ、大仏様のお顔を外からお参りすることができます。


通称、奈良の大仏様 像高は14m86.8cm
国宝:廬舎那仏(るしゃなぶつ)坐像 銅製・鍍金・天平勝宝4年(752)
大仏殿の内部は撮影OKです。
「虚空蔵(こくうぞう)菩薩」

「如意輪(にょうりん)観音」




春日大社

「南門は春日大社正面の楼門です。表参道を歩いて回廊内に入る時に潜る門で高さは
12mあり春日大社最大の門です。春日祭の折に、勅使(ちょくし・天皇陛下のご名代)が
藤原氏以外であれば、この門より入ってお祭りを奉仕します。」と資料にありました。
参道の両側には石灯籠が立ち並び、奉祝・平城遷都1300年の紙が張られ、
北回廊の東角のかっては神職の詰め所であった場所に「万燈籠」の雰囲気を
体験できるよう、暗闇の中で釣燈籠に灯をともし特別に公開されていました。
「藤浪之屋(ふじなみのや)」



「林檎の庭」
資料によると、「この広場は古来より「林檎の庭」と呼ばれ、このリンゴ(当時はワリンゴ)
の結実が多いか、少ないかでその年の農作物の豊凶を占ったとされています。元々の
樹は平安末期、高倉天皇(1168〜1179)の献木と伝わっていますがその後枯れて、
今ある樹は昭和32年(1967)に献木されたもの」とあります。

「中門」
中門は御本殿の直前にある楼門で約10mの高さがあります。
御廊は中門から左右に約13m、鳥が翼を広げたように延びています。
中門正面の唐破風(からはふ)は明治時代に取り付けられたそうです。



上の釣灯籠は「直江兼続(なおえかねつぐ)」が奉納したものだそうです。










春日本宮、若宮神社に伝わる宝物を展示しています。
蔵品には、太刀、鎧、鏡、蒔絵手箱、舞楽面など、平安から鎌倉、南北朝時代に
かけての美術工芸品が多く、貴族の生活ぶりを偲ばせてくれます。
「秋草蒔絵手箱」



興福寺
興福寺は天智天皇8年(669)に藤原鎌足の病気平癒を祈願して山背国に造営した
山階寺が起源とされ、飛鳥時代には移建されて厩坂寺、平城遷都の祭に現在地に
移されて「興福寺」と改められたそうです。
興福寺・五重塔(国宝)・本瓦葺き高さ50.1m
五重塔は天平2年(730)光明皇后の祈願により創建されましたが、度々の
火災にあい現在の塔は応永33年(1426)年に再建された6代目の塔だそうです。

興福寺・東金堂(とうこんどう)国宝
室町時代1415年に再建された、寄棟造り本瓦葺き

興福寺・国宝館
昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。

阿修羅像(あしゅらぞう)国宝
八部衆像のひとつで愁いを含んだお顔を持つ三面六臂の乾漆像。

興福寺の八部衆は、阿修羅(あしゅら)と五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、
鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けんだつば)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、
畢婆迦羅(ひばから)

「阿修羅像」とは、昨年4月に上野の東京国立博物館で身近に拝見させて
頂きました時以来の再会です。あの時は阿修羅像が唯一体だけ照明の中
前後左右からじっくり30分くらい(混んでいた為)拝見させて頂きました。

今回、阿修羅像は他の八部衆像と共に興福寺の国宝館で拝見させて頂き
ましたが東京国立博物館でお目にかかった時とは少し違った印象でした。

何かこう、あの時は「よそ行き」、興福寺では「わが家で」と云った感じでした。
やはり、ここ興福寺の阿修羅像の方がほっと落ち着いた感じでがしました。
(撮影は禁止です)
今は阿修羅像をはじめ主要な仏像をガラスケース無しで露出展示中です。


現在、この場所に「中金堂」を再建するための基壇整備中です。



このあと車は若草山(新若草山ドライブウェイ)を緩やかに上り奈良盆地を一望し
春日山原始林(春日奥山ドライブウェイ)を抜けて平城京跡にむかいます。
春日山原始林
世界遺産の「春日山原始林」

「奈良盆地」が一望です。



平城京
朱雀門

食事どころは満員で座る席がなかなか取れませんでした。
お土産物売場も盛況です。



老舗が軒を連ねる「奈良の味館」はご覧の通りです。



「平城京歴史館」
「遣唐使船」が復元展示されています。
「平城京歴史館」に入場するには、はじめに「整理券」を貰います。
整理券には「何時からの入館」と印刷されているので、それまでは食事をしたり
別の場所を見学します。 私達は入館時間まで2時間近くありましたので食事と
土産を買う時間にあてました。館内ではアニメーションなど最新の技術を駆使して
遣唐使の歴史や航海の様子を再現しています。見学時間は約1時間です。



奈良へ来たら必ず立寄る食事処があります。

店の名前は「さんきゅう」、JR奈良駅前にあります。
「ランチタイム」は3時迄で結構美味しい「寿し盛り合わせ」が780円です。
今回も昨夜に続いての立ち寄りです。

今夜は「天ぷら盛合せ」と
寿司は、なごみ(お椀付き)セットとお好みで少々追加注文をしました。
この中で私達は初めての食材を目にしました。
名前は「はすいも」です。上の「ウニ」の軍艦に添えられているものです。
調べて見たら、高知や福岡が産地で、無数に入った穴はまるで蓮かフキのようで
「はすいも」の名前のはここからきているようです。外見は胡瓜くらいの大きさです。
和食ではお刺身のつまに使うようです。





31日夜も「ホテル日航奈良」に連泊し、今日は観光ハイヤーを手配して
斑鳩方面を観光して最後に橿原神宮に参拝して帰京の予定です。
黒塚古墳
観光タクシーのドライバーの井内さんは、脱サラで経験5年目の男性。
この仕事のために日ごろから良く勉強なさっている様子でした。
その井内さんが、一寸立寄ってくれたのが、「黒塚古墳」でした。
ここは入場料は無料ですが開館時間は午前9時です。
開館時間に合わせて井内さんが案内してくれました。

黒塚古墳は古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)の古墳と推定され、
古墳の規模は現状では全長約130mの前方後円墳です。

大和古墳群学術調査委員会が中心となり平成9年〜10年の2ヶ年をかけて
調査が行われ、後円部で長大な竪穴式石室の存在が明らかになり、副葬品も
33面の「三角縁神獣鏡」を中心として多数出土しました。

発掘された「鏡」

大量の「鏡」が出土した事から一時期、邪馬台国論争が報じられた記憶があります。

いろいろな古墳のかたち

北から見た発掘当時の「竪穴式石室と副葬品の配列」




キトラ古墳
「キトラ古墳」は奈良県の明日香村で発見されました。
高松塚古墳の壁画が1972年(昭和47年)に見つかり、同じような壁画が近くに
あるのではないかと周りを調査したのがきっかけで、高松塚古墳から南に歩いて
わずか15〜20分(1.2km)の阿部山と呼ばれる小高い山の南側斜面で古墳が
発掘されました。      古墳の直径は13.8m、高さ3.3mの小さな円墳です。

1983(昭和58)年11月ファイバースコープを使い、古墳の壁に小さな穴を開けて
中を覗いて見たところ「玄武」の壁画が確認され、1998(平成10)年3月に行わ
れた超小型カメラでの調査で石室内部に「青竜」「白虎」「天文図」「日像」「月像」
が見つかり、さらに2001(平成13)年3月にはデジタルカメラの調査で「朱雀」が
発見されました。                           (各種の資料より)


飛鳥資料館
幸運なことに、飛鳥資料館で5月15日から6月13日までの期間、キトラ古墳で
発見された「キトラ古墳壁画【四神】」の総てが特別公開されていました。
壁画公開は、2006年(平成18年)の春に「白虎」、2007年には「玄武」、
2008年に「十二支 子・丑・寅」が、昨年2009年は「青竜・白虎」公開され

そして今年は4月16日から6月13日の期間、「朱雀」の公開に合わせて
「白虎」、「青竜」、「玄武」と「四神」すべてが同時に公開されました。


キトラ古墳壁画四神
「朱雀(すざく)」縦約22cm、横約52cm 南壁
朱雀は中国の伝説の赤(朱)い鳥獣で、南側を守る神獣。

「白虎(びゃっこ)」西壁
白虎は西側を守る白い虎の姿をした神獣。
中国、朝鮮半島や高松塚古墳など、ほとんどんの白虎は南に頭を
向けているのに対してキトラ古墳の白虎は頭が北に向いています。


「玄武(げんぶ)北壁
北側を守る黒〈玄)い神獣で、足の長い亀と蛇が絡み合った姿。


「青竜(せいりゅう)」東壁
東側を守る神獣で青い竜の姿。
聖徳太子の魂が青竜にのって中国に渡り、仏教の経典を
取って来たと云う説もあるそうです。  下は復元図です。



十二支の「寅」

朱雀(すざく)


「噴水施設の復元」

「石人像」

「亀石」
「石人像」





飛鳥歴史公園

「花四神」が出迎えてくれました。




高松塚壁画館

「高松塚古墳」は昭和47年(1972)に極彩色の壁画が発見され、古代史ブームを
巻き起こしました。調査後に密封保存されましたが、平成16年(2004)にカビなどに
よる劣化が認められ、現在は石室を解体し壁画の修理作業中です。



ここが「高松塚古墳丘」です。
アザミが咲き、鴬の鳴き声が聞こえる長閑な里山風景です




橘寺
別格 佛頭山 橘寺
聖徳太子生誕所
当寺は、聖徳太子の誕生の地で当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があった。
太子は、その第四皇子の橘豊日命(たちばなのとよひのみこと・後の31代用命天皇)と
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母とし西暦572年、この地に誕生

幼名を厩戸皇子(うまやどのみこと)、豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)などと申しました。
                                     (橘寺の資料より)
「黒の駒」(黒馬) 聖徳太子の愛馬像と本堂
太子の愛馬で空を駆け、達磨大師の化身と云われる。
「手水場」


「二面石」
飛鳥時代の石造物の一つで、人の心の善悪二相を表していて、
向って右が善面で左が悪面と呼ばれています。



石舞台古墳
資料によると、この石舞台古墳は横穴式石室を持つ方形墳で7世紀初頭に築造されたと
され、今では古墳上部の封土は失われて巨大な天井石が露出しています。

被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた
蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

玄室の長さ7.8m、幅約3.4m、高さ4.8mで大小30数個の花崗岩が使用されていて
天井に使われている石の重さは約64t と 77t、総重量は2,300t あるそうです。
石舞台の名前は、一般には石の形状からとされていますが、

昔、狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話しや、この地にやって
来た旅芸人がこの大石を舞台に演じたと云う話があるそうです。

石舞台の上で見かけない「トカゲ」がいたので写真に撮りました。
「ニホンカナヘビ」の一種だと思いますが、カメラを近づけても逃げません。




「伝飛鳥板蓋宮跡」


飛鳥寺


飛鳥寺に入ると鐘楼があり、誰でもこの鐘をつくことが出来ます。
私もチャレンジしてみました。
二度ほどためておいてから、ついたところ素晴らしい鐘の音が響き渡りました。

先に境内の外にある「蘇我入鹿首塚」にお参りしました。


蘇我入鹿首塚

再び、飛鳥寺に戻りお堂に入ります。
資料によると、「飛鳥寺」は第32代崇崚天皇元年(588)蘇我馬子が創立した日本最古の
本格的寺院で、寺名を宝興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ とあります。

寺宝は日本最古の飛鳥大仏「本尊飛鳥大仏」
「本尊飛鳥大仏」(銅像・飛鳥時代)
推古天皇13年(605)、天皇が聖徳太子や蘇我馬子および各皇子と誓いを立てて
発願し、同17年(609)に鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像で
高さは約3mで当時銅15t、黄金30kgを用いて造られたそうです。
(写真撮影はOKです)
「聖徳太子孝養像」(木像・室町時代)
聖徳太子16歳のとき、父・用命天皇の病気回復を祈願しているお姿。


「阿弥陀如来坐像」(木像:藤原時代)


お庭
向って左奥の燈籠は「日本の燈籠」に選ばれている「飛鳥寺形石燈籠」(南北朝時代)


「深沙大将像」(木像・藤原時代)

「勢至菩薩像」(木像・藤原時代)






「元興寺」
この「元興寺」は昨年訪れたときの写真ですが、今回訪れた「飛鳥寺」と大変に
繋がりがあるので、参考のために掲載しました。


この元興寺の前身は「飛鳥寺」で、この極楽坊本堂(国宝)の屋根にある
レンガ色の瓦は飛鳥寺から移建の祭に運ばれた古瓦だそうです。



橿原神宮



橿原神宮(かしはらじんぐう)

日本大百科全書(小学館)」より
奈良県橿原市久米(くめ)町に鎮座。神武(じんむ)天皇、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたら
いすずひめ)皇后を祀(まつ)る。社地は神武天皇の皇居橿原宮跡。1888年(明治21)
畝傍山(うねびやま)の南東の宮跡の考証がなされ、翌年5月に民間より神社創建の
請願が政府に出され許可となり、明治天皇は旧京都御所の賢所(かしこどころ)、
神嘉殿(しんかでん)を献進、翌1890年に社殿造営なって4月2日に鎮座、官幣大社と
された。神武天皇は日向(ひゅうが)三代の後を受けて大和(やまと)(奈良県)に入り、
三輪山(みわやま)に坐(ま)す大物主神(おおものぬしのかみ)の娘媛蹈鞴五十鈴媛命
を妃(きさき)として、当地で即位したと伝えられる。本殿は1855年(安政2)建造の旧京都
御所賢所で、同時に献進の神嘉殿は現在神楽殿(かぐらでん)として使用される。
境内は1940年(昭和15)の皇紀2600年記念事業として国民の勤労奉仕で拡張整備され、
約54万平方メートルに及ぶ。例祭2月11日。ほかに4月3日の春季大祭は神武天皇祭で、
一般に「神武さん」とよばれて各種の神賑(かんにぎわい)行事が行われる。
秋季大祭は10月3日。』
とあります。                       

旅の終わり近くになって、どうやらお天気が怪しい雲行きになってきました。
橿原神宮に二人で参拝し、井内さんに近鉄橿原神宮前駅に送ってもらい
駅舎に入った途端に大粒の雨が降ってきました。間一髪でセーフでした。



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